
第27号(平成20年8月20日発行)より一部抜粋して掲載します。
【特集】創立80周年記念行事 話題の人/菊池信義(昭和37年卒)

1枚のポスター私の原点
今回の話題の人は装幀家としては日本の第一人者と言っても過言ではない、菊地信義さんに白羽の矢を当てました。鵠沼中学校時代に出会った1枚のポスターが、装幀の世界への原点だったという菊地さんに装幀への思い、鎌高での学校生活を熱く語って頂きました。
(聞き手 S32年卒 第8回生 佐伯松次朗)
―装幀をやろうと思われたキッカケは何ですか?
菊地 年間契約で、社員15〜16人を束ねるデザイン会社のアートディレクターをやっていたんです。それが73年のオイルショックの影響で、規模を広げて社長業に専念するか、撤退するかを迫られたんです。社長業に専念するのは気が進まなかったんですね。元々デザインが好きだったので、それを生かせないかと考えまして、ブックデザインなら一人でも出来ると思って始めました。
―最初に手掛けた作品はおぼえておられます か?
菊地 ハイ、覚えてます。音楽之友社が出した山下洋輔が初めて書いた「風雲ジャズ帳」でした。
―鎌高は志望校だったんですか?
菊地 イヤ。そうじゃないんです。実は私立高校に行く予定だったんです。それが、家庭の事情が一変しまして「公立に行け」ということになった。そうなると、当時は県下一斉のアチーブメントテストで振り分けですから、その結果で鎌高になった訳です。
―美術部に入られたのには、何か理由があったんですか?
菊地 中学二年のときに、美術の先生からみせられたアメリカの画家=ベン・シャーンのポスターに感銘を受けたんです。いわゆるデザインとの出会いです。
―その頃から将来は美術関係に進もうと思われたんですか?
菊地 ハイ、そうですね。鎌高に入ったときから、多摩美大に行こうと思ってましたので、試験科目である英語、国語、社会、それにちょうどアトリエが出来たときだったので、実技で必要なデッサンは必死でやりました。お陰で理数系はまったくダメでした。恥ずかしい話ですが、40歳過ぎまで数学の試験の夢をみては、うなされてましたね。実際に何も分からない。隣の席に理科大に行った友人がおりまして、一問だけ教えてくれる。それを書くのが精一杯でしたね。
―スキー・山岳部にも所属されてたんですよ ね?
ハイ、何故か入ってましたね。
―山は好きだったんですか?
菊地 イエ。イエ。私は運動はまったくダメ。駆けっこはダメ。懸垂はもちろん、腕立て伏せも一度も出来ない子供だったんです。
―それがまた、どうして?
菊地 中学の時、植物が好きで、生物部に入って植物採取などをやってたんです。その時の先輩が、山岳部にいたこともありますけど、母に背中を押されたんです。「山って面白いよ」って……。
―お母さんは山登りをされてたんですか?
菊地 そうらしいですね。後から聞いた話ですけど。
―練習には真面目に参加しましたか?
菊地 練習といっても、タイヤを引っ張ったり、海岸を走ったりで、シゴキに近い鍛えられ方でしたけど。とにかく3年間まっとう出来ました。一年生に入学と同時に、25人くらい入部したんですけど、夏の丹沢合宿のときには5人しか残ってなかった。それくらい厳しかったけど、お陰様で体は鍛えられました。今あるのも、その時があったからだと思って、感謝しています。
―山での思い出などありますか?
菊地 夏は1週間から10日、山には入るんですけど、夜、テントの中で将来を語り合ったなどという思い出はまったくないですね。ただ登って降りてくるだけですもの。
―アルプスからみた景色は素晴らしかった、何てのもないんですか?
菊地 ないですね。重いリュックを背負ってただ歩くだけ。
休憩の時でも傾斜のところにリュックを立て掛けるだけ。やっと取り出したコップに粉末のジュースの素を入れると、先輩が水を注いでくれるといった状態。登山靴に汗がしたたり落ちていた記憶しかありません。初めて山に行って帰った時、母に「どうだった?」と聞かれても話せなかったですよ。
―まさに「山がそこにあるから登る」ですね。
菊地 その通りですね。景色や食事などは枝葉であって、山は登って降りるだけ。絵はがき的ではない、山の本質を習った気がします。
―デッサンもしっかりやって、希望どおり多摩美大に進まれたのに、なぜ中退してしまったんですか?
菊地 デザイン科に入ったんですが、商業デザイナーを育てるのが主流で、一方通行で意志の疎通がなかったんです。若かったこともありますが、人が人に伝える何かがないかと思ったんです。ちょうどその頃、大江健三郎さんが「広島ノート」を書かれ、中国新聞も活気に満ちた原爆の記事を連載してたんで、それに惹かれて、3年で中退し、4年の分の学費を持って広島へ行き、アメリカの雑誌のライフに36ページの広島特集を描き、デザインの登竜門であり、文学の芥川賞的なコンクールに出品したりしました。結果は落選でしたけどね。
絵と文学を伝えるのが装幀
―装幀に話を戻しますが、装幀というのは、 注文を受けてやるものですか?
菊地 そうです。装幀をはじめて、かれこれ30年になりますが、文芸書にも工夫が必要で、広告的手法が大事だということが出版社にも波及した流れにも乗ったと思います。一時は「困った時の菊地頼み」などと言われましたが、出始めの頃は、新聞のコラムで叩かれたりもしました。
―装丁と書くのもありますが、菊地さんは、あえて装幀とされている。
菊地 丁は製本する作業なんです。装釘とも書きます。昔はクギで打ってたからです。
―幀には「絹地に書いた絵を仕立てること」 という意味がありますが、それで幀≠ナすか。
菊地 そうです。
―これからもご活躍下さい。今日はお忙しい中、時間を割いて頂き、有難うございました。
1943年 東京・神田に生まれる。
1965年 多摩美術大学図案科中退
1977年 装幀家として独立
1983年 「平台/『菊地信義の本』展」(八重洲ブックセンター)開催
1984年 第22回藤村記念歴程賞受賞
1985年 「『菊地信義の本』展−素材・図像・色彩・文字」
(INAXギャラリー2)開催
1986年 『装幀談義』(筑摩書房)刊
『装幀=菊地信義−本の肖像 書物のドラマ』(フィルムアート社)刊
「『本の明日へ』展−装幀 菊地信義の世界」(船橋・西武美術館)開催
1987年 東ドイツ・ライピチヒ「世界で最も美しい本」展 銀賞受賞
(有隣堂『神奈川県の歴史』により)
1988年 第19回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞
(文藝春秋社『高丘親王航海記』・講談社『講談社文芸文庫』ほかにより)
1989年 『菊地信義 装幀の本』(リブロポート)刊
1990年 『菊地信義 装幀の本』棚展(銀座・グラフィックギャラリー・ggg)開催
中日書籍装幀芸術展(北京)出品・講演
フランクフルト・ブック・メッセ 日本の年 日本の装幀展出品
牛窓国際芸術祭 特別企画「菊地信義 装幀の現在」展
1991年 JAPAN PRINT '91(マドリッド)出品
1992年 『菊地信義 封面設計』(中国青年出版社・北京)
1993年 『わがまま骨董』(平凡社)刊、『樹の花にて』(白水社)刊
1995年 『菊地信義 封面設計』(美工圖書社・台北)
1997年 『装幀=菊地信義の本』(講談社)刊
2000年 『樹の花にて・装幀家の余白』(白水Uブックス)刊
2002年 『ひんなり骨董』(平凡社)刊
2005年 造本装幀コンクール 経済産業大臣賞受賞
(小学館 精選版 日本国語大事典 全3巻により)
2007年 造本装幀コンクール 文部科学大臣賞受賞
(講談社『おかしな二人組』三部作 大江健三郎により)
2008年 『新・装幀談義』(白水社)刊